震(ゆ)れるおもい―阪神大震災の記録―

1995年1月16日
3連休の最終日。
私は家族と妻の実家にいた。
『地震のときの非常袋、用意してある?』との義母の質問。
そのときは特に気にもしていなかった、突然の質問。
当然、義母も翌日の大地震を予期しての質問だったわけではない。

1月17日
午前5時46分
神戸で、震度7の激震。
当時、私が住んでいた名古屋でも震度4を記録。
恥ずかしながら、生後7ヶ月の長女と私はこの揺れに気づかず、熟睡していた。
朝起きて、妻に地震のことを聞かされ、慌ててテレビをつける。
そこに映し出される光景は、目を疑うものばかりであった。

1月28日
会社の同僚と神戸へ。
JRにて、前日復旧開通したばかりの西宮駅まで。
西宮駅からは歩いて、神戸の町を目指す。

東灘区深江北町
私は、社会人になってすぐ、1年間を東灘の寮で過ごした。
途中、その寮に立ち寄る。
寮のまわりで多くの家が潰れている。
寮生御用達のなじみの居酒屋も傾いている。
見るも無残。変わり果てた姿に。

寮で同期に会った。
地震当日の様子をこう話す。

揺れはとにかくすごかったが、寮のみんなは全員無事。
それよりも近所が大変なことに。
朝から、潰れた家の下から人を助け出すことに必死。
その中には、無言の人も・・・。

東灘区深江本町
寮から南に歩いてすぐ。
国道43号線大日交差点付近。
阪神高速が完全にこけたところだ。
すでに、解体撤去がかなり進んでいる。
重機の数がとにかくすごい。

この後、三宮を目指す。
一日歩き続けるが、そこで見たものは、想像もしていなかった光景ばかり。

東灘区本山南町
しばらく歩くと、遠めに10階建てほどの集合住宅が傾いているのが見える。
明らかにおかしい。

これを目指して歩く。

JR攝津本山駅近くの市営住宅。
建物は西側に大きく傾いている。
その足元は、柱が完全に潰れている。

東灘区北青木
南へ少し歩く。
阪神青木駅近くの会社社宅。
1階が完全に潰れている。

青木界隈は地震直後に火事が発生。
この有様だ。

青木から北に上り、国道2号線を西へ。
三宮を目指す。

東灘区田中町
JR住吉駅近くの市営住宅。
中間階で壊れている。

東灘区御影中町
阪神御影駅近くのマンション。
柱が途中で完全に折れている。

灘区徳井町
石屋川近く。
大きなボーリングのピンが落下している。

住宅はあちこちで潰れている。

灘区友田町、桜口町
阪神新在家駅あたり。

ボーリング場が壊れている。

八幡商店街。

六甲新道商店街。

灘区船寺通
阪神大石駅あたり。

三宮駅界隈
三宮駅に着く。

ただただ絶句。
こんなことがあっていいのだろうか?

神戸新聞会館

交通センタービル

そごう神戸店

阪急会館

神戸市庁舎

ニッセイ三宮ビル

北山ホテル

北山ホテル周辺

鉄骨造の雑居ビル。
ブレースが破断して、変形したままに。

数々のビルが壊れ、倒壊。
あちらこちらで驚きの光景が。
ただただ自分の目を疑うだけだった。

いつしか感覚が麻痺してきて、壊れた建物を探す自分がいるのに気づく。
今考えても恐ろしい。

水、電気、ガスのインフラは遮断され、用をたすのも一苦労。
食べるものもろくになく、家を出てから初めて口にしたのが、夕方、元町の中華街でのおにぎり。
とてもおいしかった。

夜も近くなり、帰路に着く。
三宮からはバスが阪神・青木駅まで通じていた。
バス停の長蛇の列に並ぶ。
2時間だったか、3時間だったか定かでないが、かなりの時間待つ。
やっと乗れたバス。乗ってからもノロノロ運転。
結局、その日は新幹線の最終に間に合わず、大阪に泊まることに・・

2月15日~3月3日
復旧活動のため、3週間現地に派遣される。
徐々にではあるが町は落ち着いてきていたが、いたるところに傷跡は残っていた。
マンションの復旧では、多くの住人から当時の様子を聞き、建物の崩壊だけではなく、精神的な苦痛、震災のすごさを痛感する。

マンションN(西宮市安井町)
復旧活動の拠点となっていた場所のすぐ近く。
完全に倒れている。

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